(執筆:2009/04/09、追記:2009/04/25)
注:本ページは、私が、つくとりを途中ギブアップした分際で思う存分叩いてます。俺の時間を返せ的な逆恨みを込めて叩いています。負け犬の遠吠えですので、「つくとり」ファンの方のご閲覧はご遠慮いただければ幸いです。
まず、プレイ前に私はこれを勧めてくれた友達(さこつさん。当サイト日記でたまに登場)にお勧めされたのが、プレイ順です。
すなわち、まず、セーブデータをあて、フルコンプの状態にした上で、3つのルートをそれぞれ問題編-解決編の順でやれということ。
友達は、問題編がそれぞれ長い上にどれがどのルートで起こったのかごっちゃになるため、一つ一つ終わらせていった方がいいんじゃね? 的ご提案でした。
粛々とそれに従った私は、まず最初に右端の研究所編をプレイし、続いて左端の神社の巫女兄妹編を終わらせ、そこで力尽きてギブアップしました。(残る真ん中のルートが多分ルル姉妹編だったんでしょうね。当然最終シナリオも未プレイ。)
なんかなー、これ、失敗だった気がするんですよね~。友達には申し訳ないのですが。
というのも、最初の研究所編を完結させた時点で早々に「山の民」みたいなのが出てくるし、研究所のトリックが明らかになる傍らグリューンとかが他ルートのネタバレをポロポロ口走るし(リリなんかいない、久十生には何か特別な目的がある、人問兄妹は元々山の民、とか)、なんだかな~という感じでございました。まだ他ルートとか全然やってないうちから一部とは言えネタバレというのは、その真偽にかかわらず、プレイする意欲に少々水が差された感じでした。
けれど、私が何よりもプレイする気を失せさせたのは、そんな点ではないのです。一重に、設定の甘さ。
いやね、ライターの頭の中にある設定は水も漏らさぬ出来栄えだというのは否定しません。多分そうなのでしょう。これだけ膨大な人物の動きを曲がりなりにも物語という軌道に叩き込み、三つの作品として纏め上げたのは、大変な作業だったのだと思うし、それを見事やり遂げたという点も、評価できるのでしょう。
しかしそれは、あくまでライターの頭の中にある設定であり、ライターが気に留めなかった部分が、私には引っかかりまくり。
私、本作を、完全ノンファンタジー、すなわち、理屈上はプレイヤーも推理可能な作品、という触れ込みで友達からお勧めされたのです。
本作は、推理物・ミステリーというには、自然描写があまりにもずさんすぎる。
私が最初に萎えたのは、タカコの部下達に憑き物を祓うという名目でリンチされた主人公を、綾子が一晩中膝枕していたシーン。
真冬の、積雪有な野外(隣は湖)で、一晩、凍えもせずに、当たり前のように膝枕しているとか、あ り え な い 。 (私には到底認めることはできない)
エロゲなら別にいいんですよ。あー現実離れしてるなーで終わりです。けど、人が推理可能なミステリーでこれは、もう論外。
「あぁ、このライターの自然描写って、この程度のものなんだ」→「推理物とか、笑わせるなよ」 と、まぁ有り体に言ってそう思いました。
続く、ラルースの死体偽装も、ラルースが死体に扮装して久十生らに発見されてから約1分間で、最初にフォレストの死体がつるされていた位置より高い位置から雪に足跡を付けることなく見事姿をくらましましたー!っていうのが種明かしでしたが、それもかなり苦しいでしょう。ラルースは超人ですか?それとも、2回目は久十生達が足跡には完全無頓着だったのでしょうか。それともそれとも、2回目は既に足跡が根元に大量に付いた木を選んでぶら下がってたのでしょうか。
私には、ライターが足跡問題について失念していたように見えましたが、どうなんでしょうね。
さらに、アンダーウッドの偽装。中の人が違うんだろうなとは思いましたが、ラルースと甲賀ってのは、幾らなんでも体格も目つきも違いすぎるんじゃないかなぁ… ていうか肌の色も違ったりしないのかねぇ… とか、もうね、「エロゲだから許すけど…(溜息)」としか言えない感じでした。
あと、廊下で甲賀扮するアンダーウッドが血流して瀕死になってるシーンのトリックも、郁が「明らかにあれは死ぬところだった、見間違いかも知れないが考えにくい」みたいなこと言っておきながら蓋を開けてみれば「死にかけってのは見間違いで、単に死んだふりしているだけでした」ってのがネタだなんて、これ、ちょっとひどくねぇっすかね!?こういうの、ミステリーならギリギリアウトだと思うんだけど!?
私は別に重箱の隅突いて進んで作品叩きをしたかったわけでなく、プレイ中の自然な感想がこれなのです。プレイスタイルを間違っていると言われればそうなのかも知れませんが、私にはこういうの看過できない…。エロゲってのは、こんな低水準で是として良いほど屑なメディアじゃないと思うのですよ。なんか感じの悪いCMみたいになって申し訳無いのですが、「SWAN SONG」の圧倒的リアリティを体験すると、こういう現実味に乏しい何ちゃってミステリーは、苛々するんですよね!これって損してるのか!?「SWAN SONG」プレイして、私は損してるのか!?
…某レビューでも述べましたが、私は、ファンタジーならファンタジーでも別にいいんですよ。描けない部分があるなら描けないでも、別にいいんですよ。あと、別にリアリティとか重視してないぜって作品なら、その辺は無視して下さって、全然問題ない。
しかし、完全ノンファンタジーって顔してるくせに蓋を開ければちっとも現実的じゃない、現実味感じられないというのは、かなり印象悪いです。
まぁその流れでもう少し苦言を呈するなら、自然描写の一部である、建物等の位置関係も、最後までさっぱりピンと来なかったのも、ライターの自然描写力の無さを表すんじゃないかと思います。私が理解力なかっただけかも知れませんが。
序章をある程度までプレイして思ったのが、こんな感想↓
「ちょ… これ、ほんっとうに、劣化ひぐらしなんだな!設定似すぎだろ!しかも明らかにこっちの方が魅力も現実味もない。」
ひぐらしは馬鹿にでも分かるくらい描写が克明で、当時の日本の某所であるという情報をテキストのあちこちにふんだんにまぶしていましたし、キャラ絵はあれなものの背景は普通に写真でしたし、序盤に出てくる舞台描写が実に克明だったんですよね。建物とかの位置関係は全然分からないけど、「だいたいこういう場所」というのが脳内にありありと(実写で)想像できた感じ。例えば神社の広さは多分これくらいで、奥に進むと○○があり、そこから山を少し上れば村を見渡せる高台があり、またこちらの方には住居があり、みたいな。 本作は全然駄目でした。ギブアップ直前の半分以上終えた時点でも、駅と森下家、北部、南部、様々な建物の位置関係がちっとも見えない。かろうじて、森下家から病院と研究所は途中まで同じ道で行ける、くらい。あと、私の中では南部のつくとり様の森は南部と北部の境界辺りに位置しており、同じく南部と北部の中間(あるいは北部寄り)にあるっぽい湖からもアクセス可能、ということになっているんだけど、これってつまり実質、南部の森入口を除けば森の中入り放題じゃねーの?とか。(そもそも、山岳地帯にある日本の森で、山岳から完全に独立した森となるとよほど小規模にならざるを得ないし、その割に森の中も結構深いし起伏は激しいし、これはもう実質森というより山岳の一部であり、となると侵入経路なんか無数に存在して然るべきだし、…みたいな)
続いて気に食わなかったのが、静眞。このキャラ、悪役としての顔幾つ持ってるんでしょうね。悪いことは何でもかんでも静眞一人に被せてしまった結果、全く意味不明のキャラが出来上がったように感じました。最初にプレイした研究所編では、最後の静眞が妙にいい人になってるのだけど、他ルートに戻ると相変わらず情緒不安定な二流悪役でしかないし。あの二流が、どこをどうしたらあんな最期を迎えられるのかさっぱり理解できませんでした。 ていうか、彼、結局あの宗教で何がしたかったの?何で病院の院長やってんの?途中で放棄したせいか、最後まで???でした。まぁこれは途中リタイヤの私があまりどうこう言う資格ないかな…。現時点での正直な感想ということでご勘弁を。
最後に、特に印象に残った駄目ポイント。
人問ルートで主人公達が森下家の離れに閉じ込められるシーン。
ご丁寧にドアを閉められ外から鍵もかけられるんですが、いや、CG見ろよCG!どう見ても和風家屋にふすまじゃねーか!!
あれにはさすがに爆笑した。好意的に解釈すればカメラ(CG)に映ってない場所に洋風ドアがあるんでしょうが、いやいや…。
で。
素直に感想書いてたら叩いてばかりになってしまい、これではあまりに空気悪いので、批評空間のPOVを一読し、また高得点レビューを幾つか読ませていただきました。
それを踏まえて、レビューへの感想。
・「そうかそうか」ネタ
そんなのあったのーーーーー!!?!?
全然気付かなかったぞ…。ひょっとして最終章? うーん、これはちょっと見たかったかも。
・北挑戦?ネタ
同上。
・ミーナの正体が最終章で明らかに!
あーそうじゃないかと思ってましたよ。
・ryomarkさんの「つくとり」の感想(勝手に引用させていただいてすみません)
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「『つくとり』はどんな作品か」と問われたら、恐らく私は「ミステリー」でも「サスペンス」とでもなく、「人間ドラマ」と答える気がする。
解釈によってカバーできる範囲が途轍もなく拡がるから、それはちょっと狡い回答だと自覚しているが、この作品は“犯人が誰なのか”よりも、“どんなトリックだったのか”よりも、“何故犯行に至ったのか”がより明確に描かれていたからと感じた為である。
登場人物たちの自我は強烈で、行動は常に各々の信念に基づく。言わば『つくとり』は私闘の物語であり、己が正義の為ならば人を殺めることも厭わない。だから、いずれもの犯人は凶行に及ぶことに必要悪を感じることはあっても、行動そのものに後悔はしない。
偏に“動機”が鮮明なのだ。必要があるから、殺す。
この点において、本作は揺るがない。
その理由は当然ながら人物によって違い、各章後編、そして神代編にて一人一人の背景が徐々に浮き彫りになってゆく。この描写が見事だった。
それは私欲であったり、私怨であったり、遵奉、恐怖、集団心理だったりした訳だが、いずれの人物のいずれの事由にも過程があり、結果があったと感じることが出来る。理解、納得とまでは言わないが、同情の余地を感じる程には、その片鱗に触れるに至れるのである。
だから、彼・彼女らに狂気を感じつつも、どこか人間臭さを覚えてしまう。
これが、私が本作を「人間ドラマ」と評価する最大の理由である。
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うまいなぁ…。
私が、本作で唯一評価できるなぁと漠然と思っていた部分を、250%ほど増強して綺麗に言語化してくれた気がします。もちろん、私の理解が及んでいないところにまで触れてもおられますが。
解答編で、綺麗にキャラ達の背景が見えていくところは、確かに好きだったなぁ。
・さこつさん(友達)の一押しポイント!「プレイするにしたがって、誰の発言を信じていいのか分からなくなるんですよ!一体誰が本当のことを言っているのか…って…。」
すみませんお話にのめりこめなかった私には そんなワクワクと没頭できませんでした。ひたすら「ふ~ん… へー… あー… 」みたいなノリ。自然描写いい加減すぎてライターへの不信感が根強かったのが大きい。積極的に脳内で処理する気が失せてしまいました。
ただ、一つ思うのは、やはり最初に研究所編からとりかかったのは、大きな選択ミスだったんじゃないかな~ということ。次にプレイした森下家姉妹編は確かに…
あれ?
…。
さっきから20分くらいかけて、どうも頭の中にあった嫌な予感の確認をしていたのですが。
私ってば、
研究所問題編→ 研究所解答編 → 森下姉妹問題編 → 人問解答編 → ギブ
の順番でプレイしていたわ・・・・・・・!!!
いやぁ参りましたねぇ…。なにせセーブデータあててるもんだから自分がどれをやってどれをやってないのかの確認がはっきり取れないんですよねぇ~。
道理で人問家の解答編プレイしても感動薄めだったわけだわ。ていうかよく気付かず最後までやったな、私…。
すみません、もう一回森下家解答編やってから出直してきます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以下 2009/04/25執筆
出直してきました。
実質、神社の出題編以外は全てプレイしたということですね。順番は狂いに狂ってるけど。
んー、神社の出題編は、人問家が見せる不穏な動きって感じなんですかね。で、森下編は姉妹のどちらを信用してよいか分からず、リリという謎のストーカー出現という恐怖でしょうか。そして研究所編は、事件そのものの謎+アンダーウッドの謎、といったところかな。特に森下編なんかが、ミステリーとして良く出来ている印象ですね。私も、最初にプレイした研究所解答編でグリューンにさらりと怒涛のネタバレ喰らわなければかなり楽しめた気がします。この辺の不気味さは、ひぐらしで十分に体験済みとは言え。
その後の解答編は、正直、回想シーン以外はどうも淡々としすぎというか悪い意味で無機的にシーンが描かれているので私にはいまひとつでしたが、回想シーンはかなり楽しい。もちろん、回想シーンを踏まえた上での登場人物達の衝突や確執の解消などといったドラマシーンはかなり面白かったです。
ただ、やっぱりあれですね。いくらなんでも長すぎる(間延びしている)点と、音楽があまりにもパターン少なすぎる点が問題ですね。どのルートいってもバッドエンドてのは別にいいと思うのですよ(既出ですが)。で、その後解答編でスッキリって構成にも不満はないです。さらに、今思えば、まず出題編を3回やることで、難解な構成をプレイヤーにしっかり理解させるという意図があったのかも知れません。しかし、それにしたって、面白さというクオリティの割に尺だけが長いような…。 まぁそういう感想です。順番がちぐはぐだからじゃねぇかと言われればそれまでですが、それにしたって、上で散々書いたように、どうもなぁと思うシーンも多いです。あと、テキストも、どうも今ひとつ、キャラクターが生き生きしてないような…。どのキャラからもライター臭がただようというか…。また、テキスト、展開ともになんだかどれもぶつ切りというか、一応繋がってはいるのだけど流れるように進行しないというか、上でも無機的と書きましたが、私にはあまりしっくりきませんでした。
で、最終章。
面白かったのは、久十生の台詞。
愛護の会について、それはもはや自分の一部と化しており、愛護の会無しなんて考えられないという発言です。
信じるor信じないではなく、正しいor間違っているでもない。彼女にとってこれらの問いはあまりにも浅薄な問いなのでしょう。彼女にとっての愛護の会とはもはやそういう次元
ではない。愛護の会と共に自分の人生があり、そして何より価値観自体が愛護の会を基に形成された以上、それを切り離すのはこれまでの自分の過去も人格も全て切り離しもう一度生まれ変わるくらいのものなのでしょう。
もちろんそれは不可能とは言いませんし若いうちなら新たな価値観・刺激・魅力、そういったもので既存の価値観に揺らぎが出ることは多々あるでしょうが、久十生ほどの歳になれば、もうそういうことも限りなく不可能に近づいていくのでしょうね。
大人になるほど、生き方を変えられなくなる。
そこにあるのはもう狂信でも盲信でもなく、ただの確信でしょう。揺るぐことのない信仰。揺るぐことのない忠誠と奉仕。
いわゆるそうかそうか、私は正直申しまして大嫌いなのですが(理由は人の心の救済だけでなく政治に手を出しているから)、そうかが創立し、大作体制に入って数十年。信者の多くはもはや久十生のようにそうかの中で揺るぎない自己を形成しているんでしょうね。
ちょっと話は移りますが、私が小学生の頃まで、私の家族と特に仲良くしていた家族が2家族あり、家族ぐるみの付き合いをしていたものです。私も相手宅の子達とよく遊んでいました。その中で、A家というのがあり、私はA家の長女が私と一番歳が近かったため最も仲良くしていたものですが、そのA家のおばちゃんが実に愛想のいい、人間の出来た人だったんですよね。親同士の付き合いはもちろん、私達子供にも常に明るくふるまい、色々とよくしてくれたものです。
そのA家のおばちゃんが今も昔も熱心なそうか信者だと母親から聞いたのは、ほんの2,3年前のことです。
なんというか、まぁ私も子供でしたし、「優しいおばちゃん」の裏の顔だなんて想像もつきませんでしたが、果たしてあのおばちゃんに裏の顔があるかと言われると、今でも私は首を捻ります。 決して悪い人ではないと、今も思うのです。 長女と仲良くしていたと言いましたが、何度か長女の部屋にも遊びに行きましたが部屋は綺麗に片付いており本棚には児童向け世界の名著が並び、そしてなにより長女自身も、大人しい感じながら実に気立ての良い、優しい子でした。ええはっきり言いますと正直惚れてた。ちなみにその後その長女との関係は私が思春期を迎えてしばらく後に撃沈以前の悲惨未満の末路を迎えるのですがそれは余談。
そう、今でも、たしかにそうか信者なのは私にとって大きな減点ポイントですが、それでもあのおばさんの人格を総否定するのは何だか違うなと思うのですね。これは別に肩入れしているとかではなく。
思うに、そうかがかりそめにも新興宗教としては日本一の信者数を誇るのは、その教えがそうそうトンチンカンなものではない、いやむしろかなり良さげなことが書いてあるのではないでしょうか。結局は宗教ですから、'良さげ'な部分の良さを科学的に証明できたり棄却できたりする類のものではないでしょう。私は無信仰ですが宗教自体は嫌いではないし、その教えはなかなか興味深いものがあると思うし、実際信仰は人を優しくも強くもすると思います。禅の言葉とか好きですね。 宗教が胡散臭くなるのは、世界の成り立ちとか科学の領域と重なる領域に手を広げている場合であり、単純に生き方を示す限り、それこそその信仰の是非を判断するのは個々人の価値観しかありません。そして、生き方を示すだけならば私は宗教について好意的です。キリスト教も仏教も、開祖やら高僧やらは結構良いこと言ってると思いますよ。
で、翻ってそうか。私はこれまで、そうかってのは一宗教が決して踏み込んではいけない領域(政治)に踏み込んでいるので毛嫌いしてきましたが、本作をプレイして、久十生という私的ヒットキャラが実は愛護の会だったという衝撃的設定を目の当たりにし、ようやく、「そうかの教え自体は、かなり妥当ではないか」という仮説に行き当たりました。
いやね、何がすごいって、教え自体はすっげーまともにしておいて、非の打ち所がないレベルにしておいて、さりげなく集金システム作っておけば、トップがいかに迷走しようが暴走しようが問題ないんですよね。人ってのはついつい物事を単純に見てしまうものだから、「これだけ素晴らしい教えを説く団体なのだから、当然執行部も素晴らしいに違いない」となりますよ。福本伸行も自作の中で語ってますが、スポーツでも芸能でも、一つのものに際立った才能を示すだけで世間は自動的にその人格全てを肯定しがちです。よほどのボロを出さない限り。
彼らにとって経典が全てなのだから、経典に「政治と宗教の癒着は駄目。絶対。」とか書いてない限り、トップが一政党に肩入れしようが自分達にも肩入れを命じて来ようが、よりよい世界構築のためとしか思わないでしょうね。そしてトップの暴走も、経典にのっとって都合の良い解釈をするでしょう。
うーん、怖いなぁ。
何かを信じるというのは、それを信じない他者との乖離を生じさせることですね。特に価値観に根ざすものに正解不正解は基本的に存在せず、問題の根をより深くします。
本作では、一貫して主人公らに"無信"を貫かせ、"信"と敵対させてきました。最終章では、それまで"不信"の先鋒であった久十生までを"信"に寝返らせるという徹底ぶりです。
弥生とルル、そしてリリ、二重の"不信"を作り、アンダーウッドという"不信"を作り、また一方でツクトリという"信"を作りグリーン・フォークという"信"を作り愛護の会という"信"を作る。
"無信"から見た"信"は私達の経験からも明らかなように不気味であり価値観を共有できるような相手とは思えません。また、"不信"の存在は、軽率な"信"の危険性を示唆することで、私達に"無信"であることを婉曲的に促します。(つまり、思考はあくまで事実に即しているべきだと)
ただ、そこまでやっておいて、ライターは結局何がしたかったのか。別にエンターテイメント以外は何もしたいことはないのか。まさかそうか叩きをしたかったわけではあるまい(もしそうなら根本からしてもっと別にふさわしいプロットがあるはず)。
その辺がピンとこないんで、あえて考察をするなら「そうかを始めとする、信じることの怖さが分かった気がする・・・・・・!」くらいの結論は導けますが、どう考えても思考の発端以外は全て自分で考えたことでこのライターが本作で描いてきたこととは関係ない
ようにしか・・・。
やっぱりADVは、大前提として楽しめないと基本的に駄目ですね。
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