腐り姫 ~euthanasia~



(執筆:2009/05/10,14 2010/05/18誤字修正。「とうかんむり」て…)


ぐぉぉぉぉぉ~~~~
私にはこの結末しか選べんーーーーー。



初っ端から感無量ですみません。たった今、「腐り姫」をひとまず最後まで終えたところです。未回収シーン・CGともに結構あるけど、多分これは一応のラスト。

私がプレイした限りの最後の選択肢は、これです。
結局、蔵女と共にどのような道を歩むのか。
蔵女と共に生きるのか。どちらかが死ぬ… これは選択肢にありませんでしたが… か。そして、お互いがお互いを滅ぼし合い、お開きにするか。


結局、3つ目を選んだ私。
自らが生きながらえるために、人の望みを適え、その存在を滅しなければいけない存在である、五樹と蔵女。最後の最後、五樹は人間としてよりもそういう「神」としての存在に近い思考となっていました。逆に、滅びの女神としての存在から人としての存在に降りてきたのが、蔵女。二人がそれぞれ、人としての心を多少なりとも持っているのなら、彼らの迷いを絶つ道は、お互いがお互いを滅ぼし合い、消え去ることだけではないのでしょうか。それは確かにとても寂しい結論だけど、それでも、最期を独りではなく二人で迎えることができる、愛する(?)者の手にかかってお互いの存在に終止符を打てるというのは、ある意味至高に美しい末路ではないでしょうか。

夏の風に吹かれ、水を感じ、二人、存在を赤い雪と化し消えていくシーン。
もう、自分で選んでおきながら、いえ、自分で選んだからこそ、猛烈に胸にきました。ここで本レビュー冒頭に戻る。

こんなにも哀しく、同時にこんなにも満ち足りており、こんなにもあっけなく、それでもこんなにも達成感のある、なにより、最適の選択であると確信し、同時にこの上もない結末であると思うのに、こんなにも胸にくるのはいったい何なのでしょう。



私にも選択肢が2つあって、ひとつは、もう一度やり直し、シーンを集めたり、他の結末を覗いたりして「腐り姫」を完結させること。もうひとつは、これ遭えてここでプレイを打ち切り、私の中の「腐り姫」はここで打ち止め、これが結末だと決めること。

普通は、というか普段の私は、後者なんかありえないのです。即決で前者一択。
しかし、本作は、これまで数多くの良作ADVに対して前者を選んできた私をして、過去最高に後者への迷いを残す作品であります。
それというのも、これは私の勘違いもしくは思い込みかも知れないのですが、本作を通して何回も出てきた選択肢。あの選択肢を私が選ぶことで、私が選んだ上で初めて成り立つ物語設定が走り出したように強く感じたのです。
たとえば、ひとつのシーンを見て、主人公がそれに何を感じたか。プラスを見たかマイナスを見たか。私はプレイ中、自分が選ばなかったもう一方の選択肢をもし選んでいたらどうなっていたかの覗き見は一度もしませんでしたが、たとえば私が「プラスを見た」という選択肢を選べば、次の世界ではそのシーンが実はプラスであったと描かれている。まるで、私の選択が、物語に新たな設定を加えたかのような、そのような錯覚に陥りました。
だからこそ、この、私が選んだ最後の結末。ここまで、私自身が作った物語なのだから、私が責任を持って終わりを定めなくてはならない。計30回近く選んできた自分の選択に、胸を張らねばならない。

そう感じさせる作品でした。
私にはそう感じられた。
(公式サイトの紹介文見る限り、その感じ方でそう間違いはないようである。)
そのように見事作り上げた製作者に、敬意を。


多分、私はもう一度作品をやり直しますが、その前にこれを書いておきたかった。


ところで、この結末。つい最近読み返していた漫画と、印象が似ていました。
「火の鳥」未来編です。
テーマのはっきりしている「火の鳥」とは違い、私には本作の主題は掴みかねています。にも関わらず、本作のラストシーンに「火の鳥」未来編を重ね合わせてしまったということは、きっと私は本作から「人間という存在」を感じ取ったからなのでしょう。
以下、穴だらけながら私の解釈です。
蔵女に喰われた者は、その存在を失い、残滓のみがその世界を生きる。その仕組みを知った五樹は、最後に残った潤を懸命に庇います。それはまさしく儚い人間ならではの思考法であり、その後潤の存在を消され自らの記憶を戻し蔵女を追い掛けることで、他者の記憶に潜る(?)術を身につけます。そうして、自らが憎み追いかけていた蔵女と同じ存在になってしまった五樹は、自身がそもそも目覚める時に自分が住む星の生命を残らず滅ぼした神(のような何か)であることも知り、ついには五樹にとっての蔵女とは唯一の理解者でしかなくなるわけですね。つまり、はじめは潤の復讐のために蔵女を追っていたのに、いつしか自身の有り様も変わってしまい、自らが無数の他者を喰らうことで記憶の中を放浪する存在となってしまう。そして、いまや自身と全く同じ存在である蔵女を求め、彼女の跡を追いかける。

人が、超常的な力に目覚めることでだんだんとその存在を曖昧にしていき、観念的な存在へと変わっていく。
だからこそ自身や他者の滅びもまたただの現象に過ぎないと割り切るようになる。
しかし一方で、そんなにも存在を変質させた上でも尚強く残っている人の心がある。それが、自らの理解者を、自らと同じ存在を、求める気持ち。
五樹は、自らが無数の者を滅ぼした"上位の"存在でありながら、他方で一人蔵女という存在を追う"人間"なのです。
逆に蔵女は、(実はこちらは五樹以上に消化不良で経緯がよくわからないのですが、結果として)五樹と出会うことで、最終的には女神という存在から人間という存在へと近づいてしまう。恐らく、初めて五樹と出会った時というのが、五樹が目覚めるために自身の世界を滅ぼした直後(あるいはその数世紀後)であり、そもそも五樹が目覚めた理由は多分樹里と心中して死んだことが引き金であり、そんな五樹によって名前と姿を与えられた破壊の女神は次の目標として五樹の記憶を元に過去へと飛び、それで「腐り姫」という物語が始まる、のかな? 蔵女という存在の行動理念ですが、私の解釈では、彼女は、蔵女を作った存在が望むものをもたらす存在なのではないでしょうか。どれだけ万能性があるかは不明ですが。ともあれ蔵女の製作者は蔵女に自分達を滅ぼすことを望んだ。だから蔵女は自分が持つ能力を使い、各人に最も欲しいものを与えた状態で滅ぼした。(多分、それがその製作者達にとって理想の滅び方だったのでしょう。最高の気持ちで生を終えるという。)
で、五樹と出会った蔵女は五樹の記憶に入り込んでしまうわけですが、蔵女は、当初から、すなわちゲーム開始直後辺りから五樹の「記憶を取り戻したい」という願いを叶えようとしていた、のでは、ない、かな…?そのために、五樹が樹里と心中したという記憶に行き着くまで、五樹の周りにつきまとっていた、のか、と。で、自分が生き延びるため?五樹の近しい人を喰っていた?のか?
あと、もう一つ考えられる蔵女の動機として、五樹に、他人の記憶を媒介に世界を飛ぶ能力を身につけ、他者の存在を喰うこと生きる者になってほしかったのかも知れません。
ともあれ、五樹が潤の復讐を誓い蔵女を追いかけることで、(いずれが蔵女の目的にせよ)蔵女の目的は達成される。しかしその後蔵女と五樹が出会うまでの間に、蔵女は人の心を知ってしまう。のかな。

うーむ。
かなりあやふやですが。


話を最初に戻すと、人より高次な存在でありながらもある面では人であり続ける存在が、長い旅を終えて最期を迎える。そんな姿に、圧倒された。そういうことです。


結局、本作で描かれた主題(というとおおげさですが)は、人という存在そのものではないでしょうか。
生死が濃密に絡む本作ですが、実は主題は生死とは無縁の、人という存在が生きる(考え、動く)、そういうものが描かれているように感じます。
そう思う根拠が3つあって、一つは、明らかですが樹里への想い。二人は死んでるので 明らかに「生きる」こととは矛盾するようですが、死ぬという行為もまた自身を立てた上での生き方の一つです。五樹が五樹と樹里に下した、彼らなりの最高の結末。

もう一つは、残滓に対する五樹の反応。
きりこであれ夏生であれ芳野であれ、実は残滓の方がずっと聞き分けも良く我も通さない、「きれいな人間」なんですよね。頑なに東京へ帰ろうと迫ったり、自分の都合を叶えるために五樹の記憶を戻そうと躍起になっては思い通りにいかないと不機嫌になったり、義理の息子に情欲を燃やしたり。そういうことは、残滓はしないわけです。
が、その残滓を見て、五樹は「○○はもういない」と悲しむのです。

そしてもう一つ。これはまた随分毛色が違う話になるのですが、腐り姫の人間の滅ぼし方。これが私には妙に好みで、その者が本当に欲 しいものを与え(幻想を見せ)、その中で赤い雪に変える。
こんなに最高の最期って、ないと思いませんか?苦しみや痛みどころか、幸せに生涯を終えられる。蔵女の製作者達も、うまいこと作ったと思います。
ライターは、プレイヤーが蔵女を「人を喰う悪い存在」と即断することに対して待ったをかけたかったのでしょうね。キーワードとして、ちょっとうろ覚えですが、「人はいずれ死ぬ 早いか遅いかだけ」こういう表現が確かに終盤五樹の思考の中で出てきてます。
蔵女は、ただ望まれた通り人に滅びを与えるだけ。しかも至福の死。私達人間が人間基準で判断するなら、至福であろうと死を与えるなんてとんでもないのですが、もう少し"高次な"視点に立って、人は必ずいつかは死ぬ、ということを前提に蔵女の行為を見れば、いかがでしょう。
蔵女が滅ぼさなかった場合に存在したはずの、残りの時間を、蔵女が奪っているのは事実です。しかしその引き替えに蔵女が与えるものは、残りの時間全てを費やしてでも得られるか分からない、自分が最も欲しいものです。
人は、何のために生きているのでしょう。どうせ生きるのなら、無目的にただ惰性で生きるより、何かのために自分の命を燃やしたい、のではありませんか。その何かも、誰かも、いずれ全てすぐに滅びるとしたらどうでしょう。自分が懸命に命を燃やす必要は、どこにあるのでしょう。


本作ラスト辺りの蔵女(そして五樹)という存在は、世界の全てのものの価値が同等に否定された上に立つものです。善悪、生死の彼岸。
その上でなお仄かな人間性を残した、ただお互いという理解者だけを求める二人。黄昏の世界で、なおとうかんもりは変わらず美しく穏やかで、その先二人が存在し続けるということは、世界にさらに無数の滅びを与えるということを意味します。

最後の結論を出す前に、五樹を連れてとうかんもりをあちこち歩き回る蔵女の無邪気な振る舞いが、胸に来ます。
メランコリックで切なく、かといって退廃的でも絶望感も無く。

そしてラストシーン。
他のどんな存在でもなく、「神」という存在でありながら人として滅んだ二人に、とうかんもりの夏。

至純の演出ですね。









最後に、好きな曲を。ベタベタすぎて、披露するのも馬鹿馬鹿しいレベルですが、まぁせっかくですので。

03:翠の森
  故郷としてのとうかんもりの曲… といったところでしょうか。
05:腐り姫の伝説
  怖い設定のはずの「腐り姫」の曲なのに、この懐かしい感じと寂しい感じが良いんですよね。
12:愛慾に光る
  シリアステキスト系作品の濡れシーンは意外と良曲が多い。
15:雨の午後の犬
  とうかんもり 雨ヴァージョンといったところでしょうか。
18:夢のきざはし
  やっぱりこれが一番かなぁ…。クライマックスの曲ですね。





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